2005年12月17日

「愛の渇き」 三島由紀夫

 『こうして私は良人がとうとう私のところへ、私の目の前へ還って来るのを見た。膝の前へ流れ寄って来た漂流物を見るようにして、私はかがみこんで、仔細に、水のおもてのこの奇異な苦しんでいる肉体を点検した。猟師の妻のように、私は毎日海辺へ出て、たった一人で待ち暮したのだ。そしてとうとう、入江の岩のあいだの澱んだ水のなかに漂着した屍体を見出した。それはまだ息のある肉体だった。わたしはすぐそれを水から引きあげたろうか?いいえ、引き揚げはしなかった。私は熱心に、それこそ不眠不休の努力と情熱とで、じっと水の上へかがみ込んでいただけだった。そしてまだ息のある体が、すっかり水に覆われ、二度と呻きを、叫びを、熱い呼気をあげなくなるまで見戍った。……私にはわかっていた。もしよみがえらせれば漂流物は忽ち私を捨てて、また海の潮流に運ばれて無限のかなたへ逃げ去ってゆくに相違ないことを。今度こそは二度と私の前に還って来ることはないかもしれないことを。
 私の看護には、目的のない情熱があったが、誰がそれを知ろう。良人の臨終に流した私の涙が、私自身の日々を灼きつくしたこの情熱との離別の涙だったと誰が知ろう。……』
posted by ヒメスケ at 22:59| 三島由紀夫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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