2005年12月18日

「愛の渇き」 三島由紀夫

 それからの二時間ちかくを、悦子は闇のなかで、恐ろしい待ち遠しさですごした。この焦燥と徒らな熱い夢想とは、三郎とのあいびきを無限に喜ばしいものに思いえがかせた。彼女は三郎に憎まれたいための告白のおつとめを、恋心に浮かされて祈祷を忘れる尼僧のように忘れるのであった。
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「愛の渇き」 三島由紀夫

『電話。あんなものを見るのもずいぶん久しぶりのような心地がする。人間の感情がたえずその中を交錯するのに、それ自身はただ単調なベルの音を立てることしか出来ない奇妙な機械。あれは自分の内部を、あれほどさまざまな憎悪や愛や欲望がとおりすぎることで、すこしも痛みを感じることがないのかしら。それともあのベルの音は、あれがひっきりなしに挙げている、痙攣的な、耐えがたい苦痛の叫びでもあるのかしら』
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「愛の渇き」 三島由紀夫

これ以上のどんな事態が、どんな悪い事態が存在しうると言うのか?そういう質問は、嫉妬の何たるかを知らぬ人の質問で、嫉妬の情熱は事実上の証拠で動かされぬ点においては、むしろ理想主義者の情熱に近づくのである。
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「愛の渇き」 三島由紀夫

 ここに至って悦子の本能は、狩人の本能に似通った。たまたま遠方の小藪のかげに野兎の白い尾がうごくのを見ると、彼女の狡智は研ぎすまされ、その全身の血はあやしく波立ち、筋肉は躍動し、神経組織は飛んでゆく一本の矢のように束ねられて緊張した。こうした生甲斐を持たぬ閑日月には、一件別人のようになった狩人は、炉辺のうたた寝のほかの何ものをも希わない怠惰な明暮を送るのであった。
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「愛の渇き」 三島由紀夫

彼女は可笑しかった。三郎にたった二足の靴下をやることの困難さと、物ねだりする配達夫にボール・ぺンを遣ることのこの容易さと。『……その筈だわ。愛しさえしていなければ、人と人とがつながり合うことなんか楽に出来る。愛しさえしなければ……』
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「愛の渇き」 三島由紀夫

私の行為の困難はどこから来るのだろう。私は何も希わない。私は目をつぶっているうちに、或る朝、世界が変わっていることを是認する。そんな朝が、そんな純潔な朝が、もうそろそろめぐってきてもいい筈だ。誰のものでもなく、誰にも希われずに到来する朝が。……私は希わずにいて、しかも私の行為が、そういう何も希わない私を根こそぎ裏切ってしまう瞬間を夢見ている。ほんの些細な、ほんの目立たない私の行為が。……
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「愛の渇き」 三島由紀夫

 城はここから見ると確乎とした土の上に建てられたものとは見えない。それはむしろ、泛んでいる。浮遊している。空気が澄んで来ると、城の実体から城の精神のようなものが抜け出して、背のびをして、その高みから四方を見まわしている姿が、遠くからも見えるのではないかと思われる。大阪城の天守閣は、悦子の目に、漂流者が幾たびとなくその目をあざむかれる幻の島影のように見える。
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