2005年12月17日

「愛の渇き」 三島由紀夫

……多分、悦子は、溺れる人が心ならずも飲む海水のように、自然の法則にしたがってそれを飲んだにすぎぬのであろう。何も望まないということは、取捨選択の権限を失うことだ。そういった手前、飲み干さねばならぬ。海水であろうと……。
……ところがその後の悦子にも、溺死する女の苦渋の表情は見られなかった。死の瞬間まで、彼女の溺死は人に気附かれずにすぎるのかもしれなかった。彼女は叫ばない。われとわが手で猿轡をはめたこの女は。
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「愛の渇き」 三島由紀夫

みんなが寝静まったなかに孤独な動物のように息をひそめて眠らないでいたその耳の存在が、悦子にはふと親しいものに感じられた。老人の耳と言うものは清浄で叡智にみちた洗われつくした貝殻のようではないか?人間の頭部でいちばん動物的な格好をした耳が、老人にあっては智恵の化身のように思われる。悦子が弥吉のこの心遣りに必ずしも醜さばかりを感じなかったのはこのためなのか?彼女は慧智によって見戍られ愛されているように感じたのか?……
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「愛の渇き」 三島由紀夫

……伝染病という明確な存在型式を負わされ統一されたこれらの運動体の群集、……ここでは人間と病菌の生の価値がしばしば等価値にまで近づき、患者と看護人は病菌に化身してしまう。……あの無目的な生命に化身してしまう。……ここでは、生命は是認されるためだけ辛うじて存在しているので、もう小うるさい欲望は存在しない。ここでは幸福が支配している。つまり、幸福という腐敗のもっとも早い食物が、完全に喰べられない腐敗の状態で。……
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「愛の渇き」 三島由紀夫

医院のこととて二階には病室が三つ並んでいるだけだ。廊下のつきあたりが窓になっている。この殺風景な窓から殺風景な街の風景が見渡される。あの廊下のクレゾールの匂い。悦子はあの匂いが好きだ。良人が短いまどろみに落ちるたび、彼女は思い切りあの匂いを吸い込みながら廊下を往復した。窓の外の外気よりもこの消毒液の匂いのほうが彼女の好みに合った。病気と死を浄化するこの薬品の作用は死の作用ではなくて生の作用かもしれない。この匂いは生の匂いかもしれない。朝風のように鼻腔に快い刺戟を与える、この苛烈な残酷な薬品の体臭は。
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「愛の渇き」 三島由紀夫

 『こうして私は良人がとうとう私のところへ、私の目の前へ還って来るのを見た。膝の前へ流れ寄って来た漂流物を見るようにして、私はかがみこんで、仔細に、水のおもてのこの奇異な苦しんでいる肉体を点検した。猟師の妻のように、私は毎日海辺へ出て、たった一人で待ち暮したのだ。そしてとうとう、入江の岩のあいだの澱んだ水のなかに漂着した屍体を見出した。それはまだ息のある肉体だった。わたしはすぐそれを水から引きあげたろうか?いいえ、引き揚げはしなかった。私は熱心に、それこそ不眠不休の努力と情熱とで、じっと水の上へかがみ込んでいただけだった。そしてまだ息のある体が、すっかり水に覆われ、二度と呻きを、叫びを、熱い呼気をあげなくなるまで見戍った。……私にはわかっていた。もしよみがえらせれば漂流物は忽ち私を捨てて、また海の潮流に運ばれて無限のかなたへ逃げ去ってゆくに相違ないことを。今度こそは二度と私の前に還って来ることはないかもしれないことを。
 私の看護には、目的のない情熱があったが、誰がそれを知ろう。良人の臨終に流した私の涙が、私自身の日々を灼きつくしたこの情熱との離別の涙だったと誰が知ろう。……』
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「愛の渇き」 三島由紀夫

 良輔は頭を振ってちらと妻を見上げた。良輔自身は気づいていない。そのとき妻を見上げた彼の目には、いつも彼が嫌悪を以てしか見ることの出来ない妻のあの犬のような眼差しが感染っていたのである。澱んだ熱っぽい切望するこの眼差、家畜が自分の体内に起った病気にわけがわからずに戸惑いしながら、じっと訴えるように飼主を見上げるこの眼差し、良輔はおそらく、自分の内部にはじめて了解しがたいものが生まれてくる不安を感じていた。それは病気だったが、病気とはそれだけのものではない。
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